専門用語に偏らず実例を生かして患者に伝わる服薬指導を実現
JR札幌駅から徒歩10分ほどの場所にある北海道薬科大学サテライトキャンパスの一室。夕闇が辺りを包み始めた午後7時、薬局や病院での勤務を終えた薬剤師や授業を終えた薬学生が集まっていた。
10人ほどになったところで英会話講師のGregory Samsonowさん(通称Gregさん)が今日の進行について説明を始める。「Don’t be shy!」がこの教室のルール。恥ずかしがらず大きな声で発言し、わからないことは質問する。教室が始まる前に必ず確認する決まりごとだ。
この薬剤師実践英会話教室「PEP (Practical English for Pharmacists)」がスタートしたのは5年ほど前。北海道薬科大学で薬学英語や教養英語を教える教員と実務家教員の有志が大学英語講師のGregさんとともに始めた。
この日は2017年度前期(4月~6月)の最終日に当たり、前期で学んだ内容を復習することになっている。授業で使う単語一覧からGregさんが単語を一つずつ読み上げ、教員が意味を説明していく。「nausea」「吐き気」、「be allergic to」「〜にアレルギーがある」など。
症状や副作用を表す単語は、学術用語と日常会話で異なっていることが多く、例えば「脳卒中」は学術用語では「cerebral apoplexy」だが日常会話では「stroke」となる。さらに実際の会話では症状や副作用について話すとき症状や病気に関する名詞はあまり使わない。「脱水症状がありますか?」とは聞かず、「のどの渇きやめまい、ふらつきなどはありませんか?」と具体的な状態をあげて説明することが多い。一般の患者と話すときは専門用語や難解な名詞を使わず、自然な会話を心がけることが大切だ。
「外国人患者さんの中でも英語が母国語の人もいれば片言の人もいます。できるだけわかりやすい会話の組み立てにしています」と話すのはテキスト作成を担当する柳本ひとみさん。地域医療薬学分野講師であり大学の附属薬局で薬剤師としても勤務する傍ら、イギリスやニュージーランドへの留学の経験を持つ。
PEPでは、柳本さんたちが会話文を作成し、Gregさんが自然な表現に直したあと、もう一度、英語教員と薬学教員が専門的な視点で見直すという3つの段階を経てテキストを完成させる。専門的な視点と患者の視点の両方が反映されて初めて、本当に現場で使える会話になるという。
PEPの授業風景。薬剤師と薬学生が熱心に英語を学んでいた
地域性・季節性のある話題でより現場に近い表現を工夫
単語の発音練習が終わり、生徒は2人1組のグループで薬剤師役と患者役に分かれて会話のロールプレイを始めた。各グループに1人ずつ教員がついて文法や副作用の表現などをアドバイスする。その間、Gregさんは各グループを回り、生徒1人ひとりの発音を聞いて正しい発音を指導していく。
Pharmacist:What are your symptoms?
Patient:I have a super runny nose and my eyes are watery and itchy.
Pharmacist:What are you allergic to?
Patient:I’m allergic to mimosa.
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抗アレルギー薬の服薬指導の一節には北海道でよく見られるアカシアの近縁のマメ科植物“mimosa”(ミモザ)が登場する。「会話文では地域性や季節性のある話題を取り入れるようにしています」と柳本さん。附属薬局で実際にあった事例を盛り込むことで、より現場に近い内容に仕上げているという。外国人患者に多い急性症状をテーマに、保険薬局とOTCを交互に取り上げる工夫もしている。
このように服薬指導の現場で活用しやすい内容にしている点や参加者が楽しめる教室運営が人気を呼び、開講当初から通っている生徒も少なくない。その1人で薬局に勤務する30代女性は、2017年2月に札幌市で開催された2017冬期アジア札幌大会でボランティアに参加したという。「東京オリンピックまでに英語が話せるようになって、スポーツファーマシストとして外国人選手を支援したいです」と英語の勉強に意欲的だ。
隣街から車で通っているという病院勤務の40代の女性は、「まだ外国人患者さんの服薬指導をしたことはありませんが、DI業務で海外の文献や論文を読むときに英語が必要なので、ここで学んだことが役立っています」と話す。
PEPの受講は登録制でこれまでに約80人が登録している。薬剤師、薬学生以外にも製薬企業の社員や看護師などいろいろな職種の人が受講しているという。
北海道の外国人観光客は増加傾向 東京オリ・パラの会場にも
北海道庁の調べによると、道内の外国人観光客は年々増加し、2015年度は対前年度比135%の約208万人にのぼった。国籍は中国、台湾、韓国が多く、アジア圏が約9割を占める。
外国人観光客は増加しているものの、北海道薬剤師会によると、薬局から外国人患者の対応に困っているという声は上がっていないという。薬剤師会でも特別な支援は行っておらず個々の薬局の対応に任せている。
ただ2017冬期アジア札幌大会では日本アンチ・ドーピング機構と協力して薬剤師を派遣した。「東京オリンピック・パラリンピックで札幌市はサッカー会場に予定されています。薬剤師会では冬期アジア大会の経験を生かした活動を展開したいと考えています」と事務局長の木藤博之さんは話している。
薬学英語と教養英語の垣根を超えて教員同士の交流が授業の質を向上
PEPの特色は、北海道薬科大学の薬学教員と英語教員の有志で作る「薬剤師実践英語研究会」が運営している点だ。研究会ではPEPが始まる5年ほど前から在学生を対象に昼休みを利用したセミナーを始めたが、成果を広く還元したいと他校の学生や薬剤師にも対象を拡大した。「教員はみんな英語教育を広めたいという気持ちが強かった。Gregさんが加わることで英会話教室の形ができあがりました」と発起人で語学分野元教授の山田惠さんは当時を振り返る。
研究会事務局の梅田純代さん(医薬情報解析学分野講師)は、2つの分野の連携が英会話教室に留まらず共同研究の方面でも効果をあげていると指摘する。教養英語の立場から見た研究会のメリットについて、語学分野教授の大野拓恵さんは「教養英語で学んだことが薬学英語につながっていくことが望ましい。薬学英語という到達点を理解したうえで1年生、2年生に英語を教えることでより効果的な英語教育ができるようになりました」と語る。同研究会ではPEPに関連した研究を、学術論文として専門誌に掲載予定だ(社会薬学Vol. 36(2) 2017)。
外国人患者が増加するなかで今後はどのような活動をしていくのだろうか。研究会代表で医薬情報解析学分野教授の黒澤菜穂子さんは「よい英語教育をしたいという思いで研究会を作りました。今後はさらに薬学英語と教養英語の連携を深め、PEPを通じて現場の薬剤師のことを知り、学生にも薬剤師にもよりよい英語教育を提供していきたいです」と、研究会をさらに盛り上げていく考えだ。
大学卒業後に働きながら実践的かつ専門的な英会話を学ぶ機会は少ない。外国人患者の服薬指導を志す薬剤師のために北海道薬科大学のような取り組みが全国で広がることを期待したい。
ユーモアあふれるGregさんの授業は生徒たちの人気が高い