夢の中では、穴に落ち込んだりしなくてはならない
「一富士二鷹三茄子」。初夢に見るものの中で、縁起のよいとされているものを順に挙げたものです。これが広まったのは江戸時代初期のようですが、鎌倉時代に編纂された西行の和歌集『山家集』ですでに初夢という言葉が使われています。
初鰹、新米、新そば、新茶など、初物好きの日本人は多くの“初”に価値を見いだします。初夢も日本独自の風習といえるようです。ただし、夢には予言的な性質があるとし、その意義や吉凶を判断しようとする「夢占い」は古代から世界各地で行われています。旧約聖書には、夢の中で神に会ったヤコブの話が載っています。
このような夢の内容を「無意識」の概念で読み解こうとしたのが精神分析の創始者ジークムント・フロイトです。1900年に『夢判断』を刊行したフロイトは、夢を「無意識による自己表現」であると考え、見る夢の内容で抑圧された無意識を解釈して患者の心負担を軽減する治療を試みました。その後、多くの研究者が夢の解釈に取り組んでいますが、心理学者・河合隼雄氏は『イメージの心理学』(1991,青土社)の中で、「夢内容をすぐに自我にとって了解可能なこととして『解釈』する」ことの危険性を指摘しています。つまり、夢を安易に解釈してはいけない、ということです。
たとえば、「大好きな祖母を自分が包丁で傷つけた」という夢を見た場合、どのような解釈ができるでしょうか。
- 潜在的に祖母への憎しみを抱いていた。
- 大好きであるため、自分が祖母に対し精神的・物理的に傷つけるのを恐れていた。その恐れが夢にあらわれた。
- 大好きではあるが、祖母の「頑固な面」を嫌なこととして感じていた。その「頑固な面」を受け継ぎたくないと無意識に考えており、その「頑固な面」のみの否定として、祖母が象徴的にあらわれた。
- 祖母、台所、包丁、ケガなどの断片的なイメージが、たまたま重なって夢となったもので、深い意味はない。
こうした様々な解釈が成り立つため、夢の意味を性急に“了解”することは避けたほうが望ましいのです。
また、河合氏は、実体験と同様に、夢の中の出来事も「もう一つの重要な体験」であると述べています。なぜなら、人間は夜遅くまで仕事をしたり、腹が立っても抑えたりと、無理をして生きているため、精神的にバランスをとる必要があり、夢は人間が人間であるための“回復運動”としての役割を果たしているからです。したがって、「人間の存在全体の働きの一環」として、夢の中では、人を傷つけたり、追いかけられたり、空を飛んだり、穴に落ち込んだりしなくてはならない、と河合氏は説きます。
このように、夢は人間にとって大切な「体験」ですから、性急な解釈は避け、夢が自分にとって最もしっくりした意味を持つようになるまで、しばらく夢を抱きかかえていることも必要だ、と河合氏は強調しています。